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一般社団法人日本グリーフアカデミー 尾上正幸6分で読めます

VR終末期体験研究に参加してきました。

「話すことで癒される」と考えてきた私が、話せない自分を体験して

VRを活用した終末期体験による研究協力に、参加者として参加してきました。普段の私は、遺族懇話会などを通じて、さまざまな方の喪失体験を聴き、ときには問いを投げかけながら、一緒にその経験を振り返る側にいます。
そこで私がずっと感じてきたことがあります。
「人は、話すことで癒されることがある」
悲しみを無理に乗り越える必要はないし、誰かが答えを出す必要もない。ただ、自分の中にあるものを言葉にして、それを誰かが聴いてくれる。その時間そのものに、人を支える力があるのではないか。

これは、これまで多くの方のお話を聴いてきた中での私なりの持論です。
ところが今回、私は聴く側ではなく、参加者として席に座りました。そして、自分自身が「話す側」になってみて、改めてその意味を実感することになりました。

自分では「立ち上がれていた」と思っていた

今年5月、兄弟を亡くしました。
そして7月には、長く尊敬してきた方との別れがありました。
もちろんショックはありましたが、自分では、比較的早く立ち上がることができたのではないかと思っていました。
強い悲しみや苦しみを抱え続けているという自覚も、それほどありませんでした。しかし振り返ってみると、その頃から三か月以上にわたって体調不良を繰り返していました。

もともとの不養生もありますから、そのすべてを二つの喪失と結びつけることはできません。それでも、これまでそれほど病院と縁のなかった私が、何度も医療機関に通い、思うように身体が動かない日々が続きました。

秋を迎え、ようやく以前のように動き回れるようになってきた。そんな時期に今回の研究に参加しました。

「話す場」に座っただけで、何かが動き始めた

最初に驚いたのは、VRそのものではありませんでした。
自己紹介をし、自分の喪失体験について話そうとしたときです。驚くほど動揺している自分がいました。
言葉にしようとすると感情が込み上げ、泣き出してしまいそうになる。それを何とか抑えながら話している自分がいました。
自分では整理できていると思っていた。
けれども、実際に誰かに向かって言葉にしてみると、そこにはまだ自分でも気づいていなかったものが残っていました。普段から「話すことで癒される」と言っている私自身が、その意味を参加者として体験することになったのです。
悲嘆は、必ずしも自分で自覚できるものばかりではないのかもしれません。頭では「大丈夫」と思っていても、言葉にした瞬間に心が反応することがある。
身体の不調として現れることもあるのかもしれない。
今回の経験から、そんなことを考えました。

VRの中では、私は「話せない人」になった

そしてVR体験が始まりました。そこには、横たわっている自分がいました
その周りには家族がいます。
家族は私に話しかけています。
何をすればよいのか迷っている様子もあります。

それぞれが自分を想い、それぞれの言葉をかけてくれている。
私は、その様子を眺めています。
ところが、私からは言葉を発することができません。

返事をしたくてもできない。
何かを伝えたくても伝えられない。
ただ、家族が自分を想い、話しかけ、迷っている姿を見ている。
普段、「話すこと」の大切さを考えている私にとって、この「話せない自分」という体験は、とても印象的でした。

そこで浮かんできたのは「ありがとう」だった

不思議なことに、その状況で私の中に強く浮かんできたのは、怖さや苦しさではありませんでした。
「ありがとう」
という言葉でした。

家族からかけられる言葉を受け取りながら、
「ありがとう」
そして、亡くなった人たちを思い浮かべると、

「よかったね」
「幸せな人生だったね」
「ありがとう」

そんな言葉が自然と浮かんできました。

自分が失ったことの痛みよりも、その人が生きてきた人生そのものに対する感謝のようなものが前に出てきたのです。
考えてみれば、私はVRの中では言葉を発することができません。けれども、言葉にならない言葉は、自分の中に確かにありました。
それが私の場合、「ありがとう」だったのだと思います。

話すことで癒される。そして、聴くことにも意味がある

VRを終えた後、参加者同士で体験について話しました。そこでは、それぞれが自分の経験や、今の自分について語り始めます。話は自然に広がっていきました。
私は以前から「話すことで癒される」と考えてきました。今回、自分自身が話す側になったことで、その考えはむしろ強くなりました。ただ、もう一つ気づいたことがあります。
話すことができるためには、聴いてくれる人と、話してもよいと思える場が必要なのです。そして、まだ話せない人もいる。話したくない人もいる。
あるいはVRの中の私のように、話したくても話せない状況にいる人もいる

だからこそ、話すこと。聴くこと。言葉にならないものを待つこと。そのすべてが、人を支えることにつながるのではないかと思います。

お別れが小さくなる時代に

私は最近、葬儀やお別れの場が小さくなっていくことと、遺された人の悲嘆との関係を強く意識しています。じつは家族葬や小規模な葬儀そのものが問題なのではありません。
ただ、お別れの場が縮小することで、そこで交わされていた言葉や、人との関わりまで少なくなってはいないでしょうか。
「大変だったね」
「よく頑張ったね」
「あの人はこんな人だったね」
「ありがとう」
こうした何気ない言葉を交わすこともまた、遺された人が自分の経験を振り返り、少しずつ自分の中に置いていく時間だったのではないかと思っています。
今回のVR体験で私が感じたのも、最新技術そのものの新しさ以上に、人が人に言葉をかけること、そしてそれを受け取ることの力でした。

AIやVRは、人と人との間に入れるだろうか

AIやVRが、人の悲しみを治してくれるとは思っていません。そもそも悲嘆は、単純に治せばよい、治せるものでもないと私は考えています。
しかし、AIやVRによって、普段は触れることのできない感情に触れたり、自分でも気づいていなかったことを言葉にするきっかけをつくったりすることはできるかもしれません。

そして、その先に人との対話が生まれるのであれば、技術にはまた別の可能性があります。
今回、私は研究対象として何かを評価する立場ではなく、一人の参加者として、自分自身に起きたことを経験しました。
自分は立ち上がれていると思っていた。
ところが話そうとすると、泣きそうになる自分がいた。
VRの中では、話したくても話せない自分がいた。
そして、その自分の中には「ありがとう」という言葉がありました。

話すことで癒される。
聴いてもらうことで、自分でも知らなかった自分に気づく。
そして、話せないところにも、言葉にならない想いがある。

今回の体験から、そんなことを改めて教えてもらったように思います。
お別れのあり方が変化し、人と人との関わりが少なくなりつつある今だからこそ、AIやVRといった新しい技術が、人に代わるものではなく、人と人がもう一度つながり、語り合うための入口になれるのか。

まだ研究は始まったばかりのようです。
その可能性を少しでも確かめるために、これからもこのような機会があれば、研究に協力していきたいと思っています。